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壇ノ浦の戦いで失われた宝剣の探索に、執念を燃やす朝廷

徹底検証! 「三種の神器」争奪戦の真相 第3回

至上命令となった宝剣の探索

 翌月11日、鎌倉の源頼朝のもとに、義経からの一巻記(報告書)が届けられた(『吾妻鏡』)。一巻記の冒頭には、安徳天皇の入水が記されており、末尾には宝剣のみが戻らなかったことが書き留められていた。
 頼朝は部下が読み上げるのを聞いた後、声を発することができなかったという。一方の義経も、反省の思いを禁じえなかった。義経は宇佐神宮に願文を奉じ、もし宝剣が見つかったならば、宣旨を下し神位を寄進すると述べている。

 かくして宝剣の探索は、絶対的な至上命令となる。大海で宝剣を探し出すことは、極めて困難を伴う作業であった。しかし朝廷は、執念で探し出そうとした。
 壇ノ浦における宝剣探索を命じられたのは、厳島神社の神主である佐伯景弘だった。景弘が探索を命じられたのは、壇ノ浦の合戦のときに宝剣の沈んだ場所を知っているからという理由であった(『百練抄』)。
 文治3年(1187)7月20日、景弘は宝剣求使に任じられると、現地へ向かい、海人に宝剣の探索にあたらせた。しかし、探索から2ヶ月後、帰京した景弘の報告は思うようなものでなかった。探索に同行した神祇官、陰陽寮も、宝剣発見の期待を卜占に託すのみであった。
 結局、宝剣探索は失敗に終わったが、後鳥羽の執念は衰えず、25年後の建暦2年(1212)に最後の宝剣探索を行っている。だが、発見に至らなかったことは、言うまでもない。

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渡邊 大門

わたなべ だいもん

1967年生。歴史学者。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。 『本能寺の変に謎はあるのか?』晶文社、『関ヶ原合戦は「作り話」だったのか』PHP新書、『明智光秀と本能寺の変』ちくま新書、『光秀と信長 本能寺の変に黒幕はいたのか』草思社文庫など著書多数。


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